第七話:怠惰による絶望
四月一八日。四時三六分。黄紋町国道六六号線。
ようやっとだ。ようやっと、事故現場を通り過ぎて車の流れが緩やかになっていく。
長かった。本当に、長かった。このまま高速道路に入れば、夕方には動物園に着く。帰る頃はきっと八時くらいになってしまうが、大丈夫だ。その頃にはもう、マジョ子が包囲網を解いて京香への監視を強めるという予定だ。
大幅な遅れはあったものの、これでラージェにパンダだけはせめて見せられる。そんな風に安心していた霊児へ、カインは軽快に車を走らせる霊児に呟いた。
「この辺りで良いだろう」
「へぇ?」聞き返す霊児に、コンビニの駐車場スペースを指差すカイン。
「あそこで止まってくれ」
全身に只ならぬ気配を感じた。肌が粟立ち、筆舌し難い不安が胸中を襲う。
「何だよ? トイレか?」
それらの胸中を見せないポーカーフェイスで、薄らとボケて言う霊児にカインは鼻を鳴らして頷く。どこか褒めているようにも見える苦笑は、腹が立ってきてしまう。
「そうだ。ここで少しの休憩を挟んだほうが良いだろう」
「賛成です」
ラージェもカインの意見に賛同する。依存は無いし、狭いシートから降りたいという欲求は霊児にもある。言われるまま駐車場スペースに車を滑り込ませて、サイドブレーキを掛けると同時に、カインは助手席から手を伸ばしてイグニッションキーを、霊児よりも早く抜き取った。
「おい?」
何にしやがると、口に出そうだった。が、もしかしたら、監視の親玉だと見破ったのか? そんな不安が頭に過ぎってしまい、唾を飲み込む。
やばい――――ぞ。今のオレは手ぶらだ。ここで、こいつと一戦殺らかすだけで、命が無い!
しかし、抜き取ったキーを持ったまま助手席を降りるだけだった。
慌てながら運転席から霊児も降りて、カインの行くトランクへ向かう。
カインは無言のままトランクを開けた。その中から、長い筒の荷物とショルダーバックを取り出すと再びトランクを閉めて、キーを霊児に投げ渡す。片手でキャッチした霊児は怪訝となってしまう。
バレていないのか? なら、何でオレから引っ手繰るみたいにキーを取る必要がある?
そんな胸中を察したのか、カインはチラリと見て口元に笑みを浮かべるだけである。
ショルダーバックから黒い革のような紐と、鎖に繋がった二枚の板。一枚は長方形だが、二等辺三角形の隙間がある。もう一枚は鋭角なひし形。長さ四〇か五〇センチの板を取り出し、鎖を鳴らしながら脇に置くと、ジャケットを脱いでワイシャツを捲くる。
その鍛え抜かれた鋼鉄の前腕に、紐を巻きつけながら徐にカインは口を開いた。
「監視していた奴等が、まだ配置に着いていないな・・・・・・」と、左手の甲まで巻き終えた紐を見ながら、握りを数回確かめつつネクタイを外して内ポケットへ入れた。
続いて長筒にあるジッパーを静かに下ろしていく。
「今がチャンスだ。奴等に気付かれないうちに、お前はラージェ様とここから離れろ」
中から出てきたのはまた同じく、二枚の板。そして三〇センチほどある一本の鉄杭。それら合計四枚と一本をジャケットの中へと忍ばせ、霊児に振り返ってニヤリと笑う。
霊児には冗談ではない。このままこいつを連れて行かなければ、目も当てられない。
「何言ってんだよ、お前! てか、ラージェちゃんを護衛するがお前の仕事だろうが! てめぇの仕事をしろ!」
「護衛のためには、ウロチョロする輩共の素性を明らかにせねばなるまい? そして、俺達はそれが出来る。多少は手荒になるがな」
それが冗談じゃねぇんだよ! オレを頭数に入れるな!
「待て待て待った! ならオレが行くから、お前が先に動物園に行け! 免許くらいあるだろう? お前が行く理由は無いだろうが?」
そう。行く理由など無い。寧ろ、自分がマジョ子達の元に行って、改めて作戦を立て直す時間が欲しい。
そんな霊児の言葉をどう受け取ったのか、カインは首を横に振る。
微苦笑しながら霊児の肩をポンと叩いて、
「聖堂の〈聖剣〉は女教皇の象徴。意味無き戦に振るうには、相応しくない。この場は戦場刀たる〈魔剣〉に任せてもらおう・・・・・・・・・敵を切り裂き血路を開くのは、この〈魔剣〉の役割だ」
何なんだ? その思考? この、女教皇を任せると言わんばかりの手は何だ? お前何人だよ! 現代人かよ!
胸中に渦巻く激昂と錯乱を、これでもかと抑えている霊児を尻目にカインは踵を返す。
「では、ラージェ様を頼んだぞ。ミドー卿」
「おい!」
止める間も無かった。肩を掴んで止めようとしたその一瞬の内、カインの背中は残像を残して霊児の掌が虚空を切る。
何の予備動作も無しで、コンビニの駐車場から消えてしまうカインに、霊児の頬に冷や汗が流れていく。てか、テメェは忍者か? アンソニーも顔負けだ。
「最悪だ・・・・・・・・・最悪すぎる・・・・・・・・・」
何なんだ? お世辞にも良いとは言えない知恵を懸命に絞り、この日のために何度も何度も作戦をガートス私兵部隊とともに練っていた。万全を喫して今日を迎えたというのに。
結果は、最悪のシナリオを外す事無く加速度的に進んでいく。
「あぁ〜あぁ〜! クソっぉ!」
ピアスに振れて電源を入れる。相棒はこの事態を聞き続けていたのだろう。砂嵐はすぐに収まった。
「こちらソード!」
『ヤー。こちら、ウィッチ!』
「やばいことになった! 魔剣がそっちを探し始めている!」
『解っています。しかし・・・・・・・・・予想以上ですね。こちらの包囲網を一時的に解いた瞬間を狙っていたとは』
誤算はそれである。国道で送った指示を受け取った霊児の班全員が〈匂い〉で気付かれた。そのため、マジョ子はすぐさま班全員に〈匂い〉を消すため洗浄を指示した。
今がその指示の真っ最中。そして、作戦中に存在した空白のデットポイント。
そこを、正確無比に突かれてしまった。もしかしたら、〈匂い〉ということすらもブラフだった可能性もある。しかし、マジョ子の疑念に霊児は首を振って言った。
「あのバカの〈嗅覚〉は犬以上だ。前にラージェちゃんを暗殺しようとした殺し屋がいたんだが、塔内部で嗅ぎ慣れない〈匂い〉を追ってその暗殺者を「輪切り」にしちまったのを、オレはこの眼で見ている」
『はぁ・・・・・・・・・うん? じゃ、今までの『事』までバレバレじゃ無いですか!』
そんな嗅覚なら、霊児が隣にいた時点でバレバレだ。
「あっ? オレの事か? 心配無用だぜ? あいつは人間嘘発見器みたいなもんだが、オレは〈発汗〉程度でバレる事は無い」
どう言う意味だと、マジョ子が唸るより先に霊児は続ける。
「オレって嘘発見器とか掛けられても、平行線しか出ないんだよ。ほら? 前に話したろ? オレの流派は〈腕力〉や〈理合〉よりも〈心の鍛錬〉を目的とする流派だって?」
確か――――そんな話もしてくれた。
チベット仏教のモンク僧拳法の流れを持つ流派で、瞑想を重視した拳法だと。
剣と拳の道で、悟りを目指す流派であり〈仙道〉。
仙人となるための――――見方を変えれば、魔術師が〈知識〉という手段で〈全知〉を手に入れる方法とは掛け離れているが、通ずる部分は多々ある流派。知識としてではなく、理解でもなく、ただ〈在り方〉そのものを〈感じ取る〉ことを重点とする拳法。
では、あの人間嘘発見器を前にしても、霊児さんには意味が無いって事なのか? つぅか、何てデタラメ! 自分の生理現象に含まれる〈汗〉すら、騙せるなんて!
『じゃ、バレれない? てか、あなたの嘘は誰も見破れないって事っすか!』
(アタシに「頼りにしている」とか、アタシと居て「楽しい」とか、「助かる」とか、言ってくれた言葉も全部嘘か! そんな言葉でときめくアタシを影でバカにしていたのか!)
この街を灰になるかならないかの瀬戸際で、変な方向性で怒りを覚えるマジョ子に霊児は首を振る。
「誰にもって言うのは大げさだ。それに、オレは嘘付くのが下手くそだし。これでも罪悪感が圧し掛かってるんだぜ? それに、お前に嘘言った事は一度もねぇよ」
あっ・・・・・・・・・やべぇ〜クラっと来たぁ・・・・・・・・・・・・後半部分の言葉・・・・・・・・・メッチャ信頼も信用もされている。嬉しい〜!
「それよりもどうするよ? カインの野郎は完全装備でそっちを探そうしているぞ?」
(先ほどの言葉+自分に向ける言葉全てが信頼)×巳堂霊児=勝つ確立天文学的数値!
頭の中で黄金の方程式を叩き出しながら、マジョ子はニヤリと不敵に言う。
『フッ・・・・・・・・・アタシを誰だと思っています? 二年来の相棒ですよ? 任せてください』
(やべぇ・・・・・・・・・相棒とか、ドサクサ紛れに気安く言っちゃった・・・・・・・・・)
マイクを前にして、顔面はトマトのように真っ赤だった。しかし、そんな姿が見えない 霊児は、頼りになる相棒の力強い返答に心打たれ、
「やべぇ・・・・・・・・・今の言葉・・・・・・・・・抱かれてもいいとか思っちゃいそう・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
違う方向性で受け取っていた。マジョ子は嬉しくない。生粋の姐御肌が憎々しい。乙女チックな本能が愕然となった。
『〈女〉の私を抱いてください・・・・・・・・・』ど真ん中ストレートを放る。
(打ち返して、巳堂さん! アタシの思いを!)
「そんな! 畏れ多い! 出来ません!」
しかし、一六〇キロのボールにバットも振れず、見送り三振の霊児。
強張った返答だった。
何時の間にか、主従関係が成立していた。しかも、立場逆。
ショックを受けるマジョ子だか、頭を振って腕時計に視界を移した。もう三分も話し込んでいた。まったく作戦に関係ないが、マジョ子としては重宝する情報を手に入れられた。
今後のことも含めて咳払いして、続けた。
『まぁ・・・・・・・・・この話は後でじっくりと話し合うことにして・・・・・・・・・』
「待て! 話し合うとかのレベルじゃない!」
絶叫を無視して、マジョ子は数秒の思考で新たな作戦を構築する。
『ソードは予定通り、女教皇とともに高速道路へ向かってください。私は魔剣と接触を避けるため、こちらの車両を捨てて第二車両に移ります。女教皇はちゃんと、車の中ですね?』
言われ、霊児はレンタカーの後部座席に目を移した。
瞬間、霊児の呼吸は止まってしまった。
居なかった。後部座席にちょこんと座っていたはずの、ラージェが居るべき座席に居なかった。
「居ない・・・・・・・・・」
『・・・・・・・・・・・・冗談でしょ?』
そんなのあり得ない。
「居ないんだよ! どうしてだよ! 何でぇ? ねぇ?」
『アタシに訊かれても解りませんよ! カメラ役も今は居ないんですから!』
話し込んだ内に、どっかに行ったのか? もしかして攫われたのか? もしそうなら、オレはぶっ殺されるだけじゃ、済まされない!
「どうしょう! どうしたらいい!」
『落ち着いてください』
(嘘発見器に掛けられても本当に平行線なのか? この人? 凄い半泣きの狼狽だ・・・・・・・・・先行き不安かも・・・・・・・・・)
『ソードはすぐに女教皇の捜索を! 班の洗浄が終わり次第にサポートに付けます! 私も魔剣を巻いたら、駆けつけます! グットラック!』
「ヤー! 了解!」
通信を終了させ、すぐさまコンビニのドアを蹴破る勢いで入ると、男性店員の胸座を素早く掴む。そして、体重七五キロはありそうな筋肉質な体育会系を持ち上げた。
カウンターの向こうで、しかも片腕で。火事場の底力どころか、命が消えるか消えないかでしか出ないクソ力だ。
「おい! 金髪の一三歳くらいの女の子を見なかったか!」
「えっ? はぁ?」と、怪訝な返答に舌打ちし、すぐさま手を離すと店内を駆けずり回る。
「ラージェちゃん! ラージェちゃん! 居たら返事してくれぇ!」
大声でラージェの名前を呼ぶ。
霊児、店員含めてたった二名しかいない空間に、ラージェのほんわかと柔らかい声は返ってこない。
「くそぉ!」
ヤバイ! これはマジで攫われたのか? 鬼門街にはオレも知らない魔術師がゴロゴロと居るから『魔術師を管理する』ってぇ、ご名目を唱えても、結局は『魔術師裁判』の〈聖堂〉を恨んでいてもおかしくは無い!
くそ! くそ!
胸中で何度も罵りながら、コンビニを出てすぐさま運転席に乗り込む。
キーを回し、レンタカーはドリフトを決めて方向転換。
そして、A級ドライバーも顔負けのロケットスタートを切って歩道から、抜き去っていく車の車内に目を光らせて、ラージェの姿を霊児は追いかけていった。
四月一八日。四時三九分。黄紋町国道六六号線。
息も切れ切れ。足はガクガクと震えていた。吐く息はまるで熱風だ。コンビニの駐車場から凄い勢いで飛び出す車に首を傾げたが、ウチの母ちゃんを見ているからあれくらいではもう、驚かなくなってしまった。
疲れ果てて、ゴミ箱に背を預けてズルズルと座り込む。頭を抱えて、蹲ってしまう。
そして――――先ほど、母ちゃんとの会話を思い出す。
自分の内側にある「何か」は、母ちゃんが言った通りの存在だ。そして、おれはソイツと寸分違わず「一つ」に成る。いや、「あれ」が元々のおれかもしれない。おれの理性や本能よりも封印しなければいけない。選択肢無しの状況かもしれない。
でも、それよりも――――美殊に頼りっぱなしの駄目な兄貴になりたくない。
真っ平ごめんだ。
今までの五年間。封印されていたせいで、美殊の重みとなっていたおれが憎い。腹が立つ。頭が悶々として、胸はムカムカと黒く脈動する。
「あぁー! クソッタレ!」
気合を入れ直すために。陰鬱な思考を吐き出すために、ゴミ箱の角に思いっきり頭を叩き込む。
思い出すのは美殊のお父さんである十夜小父さんの言葉と、おれの父ちゃんの言葉。
『娘を頼むぞ? 誠』
そんな言葉を残し、結局は自分の足でこの街に帰ってこなかった。
『お兄ちゃんだから、しっかりしなきゃな?』
兄という役割を担ったおれを、励ます今は亡き父ちゃんの微笑。
――――この、アホがぁ! 全部、守れてねぇじゃんよ!
たった六回の頭突きで、ちゃちなゴミ箱の角はおれの額の形に凹んでしまう。とりあえず、この鬱を吐き出すために何度も頭から吐き出るまで、叩き込むことにする。それしか、考えられなかった。
「くそぉー。この貧弱野郎!」
ボコボコに凹んでしまったゴミ箱を、思いっきりつま先で蹴り上げる。天高く舞い上がるゴミ箱も視線を外して、晴れない気持ちのまま今度はペットボトルのゴミ箱に背を預けた。
思い返すとおれは何て〈幸運〉なのかと思ってしまう。
今まで、何も知らないでヘラヘラしていた自分。
退屈だとか、ヒマだとか思っていたあの五年間は、美殊が支えてくれたんだ。支え続けてくれたんだ。〈普通〉だと思っていた事が、〈特別〉だったんだ。
封印が解けてからようやっと、美殊は〈普通〉に笑ってくれたんだ。
言い出せなかったから、苦しんでいたからだ。あいつ、無口で無愛想なのに表情はポーカーフェイス出来ない。だから、顔色見るだけでどんな心中か解ってしまう。
封印が解れた時に今朝も笑ってくれたし、おれに向かって自分の事を話してくれたじゃないか。
今までのことを振り返ると、おのずと自分の内側から答えが沸き上がってくる。自然と――――知らない内に両足は力を取り戻す。
「今は母ちゃんから逃げよう。後は知ったことか!」
半分ほど自棄になりながら、吐き捨てる。そして、逃げ切るためにはまず水分補給だ。
コンビニに入るのと入れ違いに、蹴り上げたゴミ箱は盛大な騒音を立てながら着地する最中。カラカラな喉を潤すために二リットルボトルのスポーツ飲料を片手に、体育会系的な店員に商品を渡す。何故か、ガタガタと歯を震わせていた。目はチラチラと店の外にあるゴミ箱を盗み見ているが、手際はよくレシートまで丁寧に両手で渡してくれた。
うん。甘えや奢り無く仕事をする人はとても素敵だ。
店員に感心していた気の緩みに、滑り込むかの如く勢いよくドアを開ける音が響く。もしや母ちゃんか!
そう思って振り向く。神出鬼没を越える母ちゃんだ。どんな所かでも現れたって不思議じゃない。例え、トイレからでも! むしろ、不思議って言葉が当てはまらない。てか、不思議の塊?
しかし、開かれたドアはコンビニのトイレである。
一三か一四の間だろうと思う女の子が、プルプルと肩を震わせている。
身長はマジョ子さんより低い。金髪に、綺麗なドレス。笑うと、可愛いと断言してしまいそうな美少女は、金色の双眸に涙を溜めて怒りに震えていた。
羞恥と怒り。さらに恥辱に耐えるような顔を、ギリっと上げる。
「レイジさん! あなたは何を考えているんですかぁ! トイレ休憩と言っていたじゃないですか! それなのに大声で私の名前を呼んでぇ! あなたは紳士としての自覚はあるんですかぁ! 返事なんて出来る訳無いでしょう! 恥ずかしくて死にそうです!」
小さな身体で何処に、そんな大声を出せるのかと思ってしまう怒声だった。
呆気と囚われるおれと店員。
そんなおれと店員を交互に見て、自分の叫んだ人物が居ない事にハタと気付く少女。
「えっ・・・・・・・・・嘘・・・・・・・・・?」
トテトテと小走りして、硝子越しで駐車場を眺める少女の顔が一気に青冷めていく。
「そんな・・・・・・・・・どうして・・・・・・・・・どうしてですかぁ!」
う〜ん〜? 英語の成績は中の中なおれでも大体、解ってきたぞ。
この子は置いてかれちゃったんだな。
一体、だれだ? そんな酷い事をする人は?
四月一八日。四時四三分。異界内部の螺旋階段。
奈落に通じるような、螺旋階段を延々と降り続ける。白衣はオシャカになってしまい、途中で捨ててタートルネックのセーターとGパン姿になっているアヤメの背中を追うように、久遠ユウコはこれから『出会う』予定の患者を覚えている限り言葉に乗せていく。
「磯部綾子・・・・・・・・年齢一六歳、今年で一七。二年前からチョクチョク病院通いしていたのを覚えているわ」
覚えている印象。覚えている事。その全てを言った欲しいと如月アヤメに言われ、久遠ユウコはこめかみを人差し指で小突きながら、うろ覚えの印象を語り始める。
「正直、可哀相な女の子だったわ・・・・・・・・・病院の廊下ですれ違った時の最初の印象は・・・・・・・・・何て、言えばいいのか・・・・・・・・・絶望感っていうのかしら。あの年頃だと、簡単に信じ、簡単に傷付くから」
振り向かずに、アヤメは内心で肯定する。
世界は自分を愛している――――と、言うのは大げさだが、自分を傷付ける存在が間違いだと――――あってはならないモノだと――――あるはずが『無い』と、勝手に『信仰』している。
イジメをしている誰かも。
イジメられている誰かすらも。
その『信仰』とやらを勝手に信じているから、『世界』を絶望する。『世界』を『甘く』考えている。
『甘く』考えている連中は、怠惰の如く享受するだろう。自分勝手に忘却し、『そんなこともあったけど、あれは私が子供だったから。荒れていたから、仕方が無い』など、勝手な言い草と言い訳で『美しい過去』と決め付ける。
許せるわけが無い言い訳と、言い分。
それらを盾にして、人生を歩んでいる。
『絶望』している連中は、妬むだろう。憎むだろう。恨み続けるだろう。何年先になろうと、『復讐』という形で『甘い連中』に叩き付けるだろう。叩き潰し、『甘い』価値観を持つ連中を、誰彼構わず木っ端微塵にしてやると復讐に『酔っている』。
ユウコもその『信仰』を実践した人物である。
ユウコは正攻法で『復讐』した側。
医大で医者として成功している。ユウコに対して、『甘く』考えていた連中より、幸せと自由と人生を謳歌している。
しかし、その復讐者は嘲笑うでもなく、悲哀の漂う苦笑を磯辺綾子に零していた。
昔の自分を見るように。昔の自分と面と面を突き合わせて合えるならと、あり得ない出来事を考えながら。
「±〇なのにね・・・・・・・・・」
アヤメもその言葉を背中で聞きながら、無言で頷く。
世界は『甘い』でも、『絶望』でもない。そんな二択は存在しない。あるのは、曖昧な灰色のみ。
±〇・・・・・・・・・・・・それが残酷なまでの『世界』。
完全な悪も、完全な善もこの世に存在しない。
『正義の味方』なんて、居る訳が無い。
『正義』と吼えた輩は、犬畜生以下だと如月アヤメは知り尽くしているし、嘲弄もする。『悪』も、この世にある訳が無い。
『絶望』など二〇年間実の両親に幽閉され、望まずに『全知』を手に入れてしまった『黒白の魔王』以上の、生い立ちと経験をしてから言えと鼻で笑う。
アヤメと駿一郎の遅い青春時代は、それほど過激で苛烈だった。
偽善と偽悪で世界は構成されていたと気付いても、自分が信じた他人と駆け抜けた激動の時代であり、黄金の二〇代だった。
全てが死ぬかの瀬戸際で、如月アヤメも夫の如月駿一郎も、親友の真神京香も、京香が紹介した年下の十夜も、十夜と京香の幼馴染みで結婚前提彼女の殊子も。そして、誰よりも普通に笑う仁すらも。
ただひたすらに、間違いとか正しいという理由で悩んだ事すらない。
あの『黒白の魔王』と敵対していた時ですら『気に入らない』、『クールじゃない』、『死ぬほど気に喰わない』、『味方は選びたい』、『好きな人とは一緒に居たい』と言うだけの理由だ。
些細な、ちっぽけなプライドを掲げての抵抗だ。
仁に至っては、もっと単純だった。ただひたすら、『普通』に立ち向かった。
どんなに限り無く純度の高い悪と善すらも、人間が語った時点で悪と正義は完全ではないと知っていても、ひたすら『自分』と同じくらい貴い『他人』を信じていた。
縋っていただけかもしれないが、その縋ったモノは『藁』ではなく『黄金』だと今ですら、断言できる。自分の息子と娘を前にして、胸を張って言える数少ない誇り。
そう――――断言できるほど、自身を信じられる。
アヤメは今を信じられる。
「そうだねぇ〜? 『絶望』できるほど『甘く』ないね。『甘く』考えられるほど、都合よく『動いて』くれないしぃ〜」
のほほんとした声音に含まれた翳りに、ユウコは頷く。
彼女の人生もユウコが知る限り、かなりハードである。
実家はヤクザで脛傷持ちの若い衆が入り浸り、父親が再婚した相手はよりにもよって、ユウコとアヤメの大学時代の、〈先輩〉である。
あの頃のアヤメは、実の父親に対して遅い反抗期をこれでもかと、爆発させていた。毎日のように愚痴を聞かされていた。家には帰らずユウコのアパートで寝泊りしていた。
「確かにねぇ・・・・・・・・・でも、ムカツクくらい〈世界〉ってぇのかな? 〈世間〉かな? こんな〈全部〉が好きなのよ。〈好き〉にならなきゃ、人生損じゃない?」
「言えているね? そうじゃなきゃ、やってられないもの?」
悪戯っぽい声音で返され、苦笑する。
「まぁ・・・・・・・・・自分なりの人生観かしら? それとも妥協かな?」
「さぁ〜。ワタシには断言できないよ。大人だって思えるほど出来た性格じゃないし。肯定も否定も、出来ないよう」
曖昧に肩を竦めるアヤメに、ユウコは確かにそうだと頷いた。
「まぁ、人それぞれの物差しがあるからねぇ〜」
十人十色。故に磯辺綾子を同情するのも非難するのも、嘲弄するのもそれぞれだと。ユウコは思う。
「じゃ、あんたの物差しで良いから質問するわよ?」
「何?」
「磯辺綾子に合ったら、どうするの?」
首だけを振り向き、アヤメはモナリザのような微笑みを浮かべる。
「ショック療法が妥当かと思っているけど?」
駄目かな? と、茶目っ気に笑っているが、目だけは凄みがあった。
完全に、磯辺綾子をショックどころではない療法を施すつもりだ。
「どんな療法で?」
身震いしながら、解りきっていてもつい聞いてしまった。そんな質問に、当然とばかりに。
「やっぱ、言葉じゃ解らないお子様にはお尻ペンペンでしょ?」
「まぁ・・・・・・・・・妥当といえば、妥当かしら?」
まぁ・・・・・・・・・トイレの便座に座れなくなる程度なら、まだアヤメとしては寛大か。随分大人になったものだ。
螺旋階段は奈落に続いているのかと、思えてしまうほど真っ暗な闇を降り続けていたアヤメが、いきなり腕を伸ばして止まれと合図を出す。
「どうしたの?」
怪訝となりながら、階段にハイヒールを下ろそうとした。今まで甲高い踵の音を響かせていたはずの階段が、いきなり畳となっている。すぐに視線を降ろして確認するものの、やはり畳として目に映る。
「何んなのよ――――」と、顔を上げると風景まで一変していた。
数十枚の畳が引かれ、身が引き締まる空気を醸し出し、掛け軸に達筆の『武』という一文字―――――――この部屋はユウコに見覚えがあった。
小、中、高校に大学と腐れ縁であるアヤメの実家。旧姓戸崎アヤメの実家だと、すぐに気が付いた。
「ここって・・・・・・・・・確か、アヤの実家にある道場じゃないの?」
大体はアヤメから〈異界〉の異常さを教えられた。このような現象は、磯部綾子を基準として成り立つ〈異界〉であり、彼女の知らない場所は存在しないと言っていた。だが、これは? どうして、アヤメとユウコの良く知る道場が存在するのか?
「どう言うことよ? ねぇ? アヤメ!」
「・・・・・・・・・・・・」
質問に何も答えず、アヤメは呆然としたまま掛け軸を前にして、正座する人物を凝視していた。
ショートヘアーの小柄な女性である。胴着と御袴を凛と着こなしている背中を、じっと見詰めていた。
「ちょっと、アヤ?」
貯まらずアヤメの肩に手を置いたユウコは、ぎょっとした。アヤメの肩が、小刻みに震えていたのだ。
(えっ? どうしたの?)
内心の動揺に思考は奪われ、掛ける言葉を失うユウコの手を無視してアヤメはギリッと歯を噛み締めた。
ユウコが一度も見たことの無いアヤメがそこにいた。のほほんと毒舌なアヤメが、純度の高い怒りを露にしていた。どんなに激怒しようと微笑を絶やさないアヤメの顔が、柳眉を吊り上げていた。
「そう・・・・・・・・・そう言うことなの・・・・・・・・・磯部綾子ちゃん」
呟き、ユウコの手を払うでもなく正座する女性へと進んでいく。
「自分の〈トラウマ〉じゃあ勝てないって解って、今度は〈ワタシ〉の〈トラウマ〉を盗んだのね?」
苦笑するような声音。だが、背中を見ているだけだが、ユウコは察していた。
――――震えていたのは、怒りじゃない。
「ワタシのトラウマを〈作る〉なんて・・・・・・・・・そんなの一流の魔術師だって困難よ? 〈異界〉を作り上げた瞬間、自分が決めたルールを曲げられないのに・・・・・・・・・」
アヤメの言葉を背中で受け、女性はクスリと笑いながら立ち上がる。
「【そうねぇ〜魔術師なら困難よねぇ〜でも、退魔師なら?】」
どこか、違和感のある音声。相違点が多々あるが、ユウコの聞きなれた声音だった。
言いながら振り返る女性の顔に、ユウコは絶句する。
寸分違わず、何の狂いも無く、如月アヤメと同系の顔。同系の微笑を浮かべていた。
「【〈魔を退ける〉と書いて、退魔師。でも、外法も魔生も邪道すら極めるからこそ〈退魔師〉として成り立つのよ? お父さんに教えてもらわなかったの? アヤメ?】」
その顔が気に入らないのか、その声に虫唾が走るのか。アヤメの両拳をきつく握り締めて、全身に烈気と怒声を放つ。
「いいわよ。綾子ちゃん・・・・・・・・・ワタシはあなたを殺すつもりで、この《虚像》を消し去る! あなたも精々抵抗するのね? 消されたくないなら?」
「【冷たいわねぇ〜いくら《虚像》だからと言って、お母さんにそんな口を利くのぉ? 彩歌はショックだよぉ〜〈心〉も〈身体〉すらも《具現化》してるのにぃ〜そんな風に育てた覚えは無いぞぉ?】」
口調や、メッと怒る仕草すらも。どんな言い訳を頭で並び立てても、崩壊してしまうほどだった。
――――彩歌と名乗った女性は、アヤメと似ていた。似過ぎていた。
不気味なほど。初めて見る、如月アヤメの母親に久遠ユウコは言いようの無い悪寒が走った。まるで百足の大群が、背を這い上がるような悪寒に震えていた。
「黙れ。その姿、声、笑い方まで腹が立つ。消えて無くなれ」
抑揚も無く、絶対零度の声音とともにアヤメの姿は聖鳥へと変化する。黄金の光を放ち、真紅の翼を羽ばたいた次の瞬間には、アヤメの姿が消えてしまった。
「【ふぅ〜誰に似たのかなぁ〜?】」と、アヤメのように首を傾げた次には、彩歌も同じく姿が消える。
「なっなぁ? 何?」
ユウコが道場の周りを見渡す。
いきなり消えてしまった二人。
しーんと静まり返った道場の中で二人の姿を探すため、首を左右に動かしたユウコの頬に雫が落ちてきた。
「なっ?」
恐る恐る頬を拭った手を見ると、指は真っ赤に染まっていた。
医者のため何度も見たし、何度も触れた経験があるその真紅はすぐに血であると理解した。
次の瞬間、掛け軸どころか壁が木っ端となって吹き飛んだと同時に、破壊された壁に血が飛び散る。
ユウコは眼を懸命に向けるが、今度は畳。
次には掛け軸があった反対側の壁。
天井。
また畳。
窓のガラスが叩き割れ、破片が落ちる前にユウコが立っているすぐ真横で、畳が轟音を立てて陥没しまた血の跡が残る。
二人の姿はユウコの眼に映りすらしない。
音すらない。
寧ろ静寂な道場に、ところ構わず血飛沫が舞い続けて付着していく。
「もしかして・・・・・・・・・〈見えない位〉に、疾いってこと?」
ありえない。そんなの漫画だけだ。漫画だって、打撃音くらい描かれている。しかし、それだけ疾いなら・・・・・・・・・・・・〈音〉より疾く動けても、おかしいとはユウコにはとても思えなかった。
見えない戦闘は、ユウコの時間間隔でおよそ一〇秒程度である。その一〇秒後に畳に叩き付けられ、セーターからジーパンまでを血染めにして転がるアヤメの姿を捉えた。
数回のバウンドすら勢いを殺せないのか、壁に背中から叩き付けられているアヤメに悲鳴も上げられず、ユウコは呆然と見詰めるだけだった。
ポケットの中にある携帯電話の着メロが鳴り響き、ズルズルと壁に血の跡を描きながら、畳の上に倒れこむアヤメの怪我を見た瞬間、職業意識が恐怖を打ち消した。
応急手当をしようと、駆け寄ろうとしたユウコの肩に誰かの手が圧し掛かった。
人とは思えない、酷く冷たい掌に動けずにいるユウコの耳にそーっと、血だらけの友人とそっくりな声が囁かれた。
「【大丈夫よぉ? 死にはしないから。ただちょっと、眠っていてね?】」
残酷なまで優しい声音とともに、首に巻かれた冷たさに。
久遠ユウコの意識は、一瞬のうちに刈取られた。
四月一八日。四時四四分。異界内部の学校廊下。
店の結界で閉じこもるより、京香の破壊によって名も知らない入院患者が消え去る事を恐れた駿一郎のチームは、反対意見も無く、この店から出てアヤメと合流次第に入院患者を捜索することを選択した。
入院患者を全て、結界が施された喫茶店に入れるのを目的としての行動である。
じゃなきゃ、過激な女王様が暴れ狂うのだ。
店の出入り口を出た瞬間、見慣れた近所の風景などぶっ飛ばして、現れたのは何処かの学校の廊下だった。
〈異界〉を行軍する際、フォーメーションを決めてから廊下を闊歩する。
煙草を咥えながら、携帯電話に耳を傾けている如月駿一郎を殿役とし、前方は掃除用具のブラシと鍋の即席ヘルメットを被った鷲太。その鷲太と駿一郎の間に手を繋いだ弥生と春日井忍。
忍の左手には弥生の掌。右手には喫茶店にあった台所の牛刀を握り締めている。
弥生は無手だが、忍や鷲太ほど緊張した面持ちは無い。後ろにいる父親を信頼し切ってリラックスすらしていた。
しかし、そんな頼りになる駿一郎の声音が強張っていた。
「おかしい・・・・・・・・・」
携帯電話でアヤメに何度も電話を掛けているにも係わらず、コールだけだった。
「アヤメが電話に出ない」と、呟きながら煙草を指で挟んで紫煙を吐いた。
「はぁ? 確か、ゾロ目の時間だけ連絡できるじゃなかったのか?」
鷲太は前方に注意しながら呟く。
「確か、そのはずだがな・・・・・・・・・根本的なルールだけは絶対に変えられないのが、〈結界〉の長所であり短所だ。つまり・・・・・・・・・アヤメの奴は、トラブっているかもしれない」
先行き不安になる推測に、忍は溜まらず振り向いてしまう。
「それじゃ、アヤメさん・・・・・・・・・如月くんのお母さんは・・・・・・・・・」
もしかして、という言葉を消し去るように口を開いたのは弥生である。
「心配ないよ。お母さんは強いんだよ?」
「あぁ〜オヤジとオフクロは誠さんだって、頭が上がらないからな?」
弥生の言葉に頷く鷲太は、溜息混じりに言う。
「誠さんが〈悪魔〉なら、オヤジとオフクロと京香さんは、悪魔だって平気で騙す詐欺師だな? 寧ろ、調教師か?」
「せめて、『魔術師』って言え。鷲太?」
「じゃ、ペテン師みたいな魔術師」と、店にいた時と相変わらずの舌戦が始まりそうな親子に、忍は小さなクスリと笑い飛ばした。
確かに駿一郎の強さを目の当りにすれば頷けるし、まだ顔を合わしたことは無いが、アヤメもそれ相応の強さを持っていても、不思議ではない。
そう、絶対にこの勝率を歪めることなど出来るはずはないと、思っていた矢先だった。
鷲太の先にある廊下の風景が、まるでビデオの早回しのように変わっていく。廊下の床から天井までが、浸食するかのようの変わっていく。
鷲太はその光景を見ていない。首だけ背後にいる忍達を見ていた性だ。あるはずの廊下が白い壁となり、鷲太が被る鍋が障害となって立ちふさがった。
「イッ」てぇ〜と、口走ろうとしたのだろう。だが、いきなり現れた壁。床はリノリウムとなり、廊下からいきなり何かの実験室のような場所へ転送されていた。
「なっ・・・・・・・・・・・」
「どうし――――て?」
「何、この鉄が錆びたような匂いは?」
鷲太と忍の驚愕。弥生の疑問。その三者はいきなり変化した風景を、見渡していく。
床は所々、黒い斑点があった。何かの手術室なのか、白いライトを点滅させている。
何百とあるファイルが収められた本棚の横に、大型のスピーカーすらもやはり黒い斑点がある。
映画でしかお目にかかれない、人体実験の手術室と、数秒も掛からずに鷲太は理解してしまう。
「あぁ・・・・・・・・・・・ここには見覚えがあるな」と、溜息を付きながら紫煙を吐く駿一郎に三人の視線が集まり、この場所はどこかと言葉にせずとも表情で判ってしまう。
「ここは、俺が生まれた場所だ」
はぁ? と、疑問符を頭に浮かべる三人に肩を竦ませてガラス窓の向こうを指差す。
「ほら、あれを見ろ」
言われ、三人は駿一郎の指差す方向――――ガラス窓を一斉に向いた瞬間、呼吸が停止した。
ガラス一枚の向こう側には、広い訓練場の光景が眼に飛び込んできた。
下から見下ろす形であるが、その訓練場で繰り広げられている残虐と言うには、あまりにも凄惨な光景があった。
まずプールがあった。そのプールの縁で身体中に鉛を付け、一番年が高いと言っても鷲太と忍程度の少年少女が、次々と飛び込んでいく。
自分の意志で。死ぬと判るような無謀で。これしか教えられていないと、言うように。
「心肺機能を高めるための訓練に、水圧耐久力訓練・・・・・・・・・・・・」
駿一郎の気だるげな声音が響くが、そのプールの横では数十人の少年少女達が、高速に飛び交うボウガンの矢を懸命に避けていた。
「反射神経訓練・・・・・・・・・・・・」
極め付けに、巨大なプレス機の下で両手足を鎖に繋がり両手で鉄を支えるが、全身の毛細血管から血を流しながら・・・・・・・・・結局はプレス機に潰されてしまう少女は、悲鳴も断末魔も無く、この世から消え去った。
プレス機が上げられ、脳漿と骨が付いた鉄板は粘液質な糸で床と繋がっている。その見るもおぞましい鉄板に、今度はまた別の少女が支えて歯を食い縛って耐えていた。
「耐久訓練か・・・・・・・・・死体安置所に行けるだけ〈原型〉が残っていた奴は、aZ〇一二と、aZ九九八だけだったな・・・・・・・・・・・・」
思い出しつつニヒルに笑うと同時に、プレス機にまた潰れてしまう少女。次は少年が変わり、同じ事の繰り返し。
そのプレス機の前に、何人も行列が出来ていた。異様な――――行列が後を絶たない。
煙草を吐き捨てる駿一郎は、肩を竦めてガラスの向こうで行なわれている地獄のような光景を目の当りにしている三人に、首を傾げた。
「確か、鷲太と弥生にはこのことは話したろ?」
言われ、振り向く息子と娘の顔は恐怖が張り付いている。
「〈特殊訓練場〉って言ってたじゃねぇか!」
「そうだよ! 〈エリート養成所〉って言ってたじゃない!」
二人の切迫した問いに、駿一郎は肩を竦める。
「だからこれが〈トレーニング〉で、〈エリート〉の選抜。脱落者は見ての通りだ」
当たり前のように言う父親に、愕然となる鷲太と弥生。鉄板に潰れた異音が遠くで響いた。
(これが訓練? 拷問の類じゃないかよ!)
鷲太は理由の判らない憤りに、苛まれていた。父親が話した〈昔話〉は、殆どインチキ臭かった。
特殊な訓練過程をこなし、一〇人構成のエリート部隊の一員となり、黄紋町に来た。と、言っていた。
そんな話しなど、今の鷲太にはうそ臭過ぎて信じられるモノではなかった。
「おい? 嘘って言えよ! 大体、日本のド真中で戦闘したとか、宇宙から来た怪物を倒しただの、世界を滅ぼそうとしていた〈悪の親玉〉は、京香さんの兄貴だのと、作り話にしては滑稽過ぎたモノだぜ? その極め付けが、仁さんがリーダーっぽいのも信じられねぇよ! 現実的じゃねぇよ!」
「小説よりも現実のほうが、突飛なストーリがあるもんだぜ? 俺はアヤメやお前と弥生に対して、〈嘘〉をついたことは一度も無い」
父親の最後の言葉で、鷲太と弥生は泣きそうになってしまった。このふざけた父親を、鷲太が父と認める部分。嘘を付かないという、美点。
しかし、こんなのは、あんまりだ。
これが父親の過去だという事を、どうしても否定したかった。
「こんな酷すぎるじゃねぇかよ! これが、オヤジには良い思い出なのかよ!」
何を言うのかと、息子を見下ろして鼻で笑う。
「これがなけりゃ、俺は仁にも京香にも逢えなかった。十夜の奴と殊子を茶化したりも出来なかった。何より、アヤメと逢えなかったんだぞ?」
どうしてそこで怒っていると、駿一郎は本気で訊いていた。
怒っていた自分が馬鹿らしくなってしまう。弥生も同じなのか、鼻を啜って袖で涙を拭い始める。
「あぁ〜もういい。ムカつくけど、あんたはクールだよ・・・・・・・・・」
ケッと吐き捨て悪態を付くが、もう鷲太は落ち着きを取り戻していた。弥生も何とかガラスから離れ、無意識で散々バカにしている鷲太の手を掴み始める。
「でも――――どうしてですか? 〈異界〉って〈他人〉の心にも干渉したり出来るんでしょうか?」
額の痛みの性か、それともこの〈異界〉に入った時からか、忍の精神は自分でも信じられないほどコントロールが出来ていた。〈異界〉に順応しようとしている自分の変化に戸惑いつつ、駿一郎へと顔を向ける。
「そこなんだが・・・・・・・・・〈術者〉の能力が高いんだろうよ? 〈異界内〉で平常にいられる〈俺〉をどうにかするため、〈俺〉の〈心〉を先に壊そうとしているんだろうな?」
無駄な事だと、皮肉な笑みを浮かべる駿一郎の顔は、誰より冷静だった。己の過去すら〈是〉とする強靭な精神に、忍は安心した。本当に、頼りになる人だと尊敬すらしてしまう。
「だが、あまり人に見られて気持ちのいいもんじゃないからな。ここは無視して先に進むぜ?」
顎で部屋の中にあるドアを指し、鷲太、弥生と続いて忍が戸口を潜り、駿一郎が最後に部屋を後にしようとした瞬間だった。
「【焦る事は無いだろう? 〇〇二一?】」と、先ほどまで自分達以外居なかったはずなのに、本棚の影から滲み出るような声が響いてきた。
「【見せたくないから焦っているのか? それとも、〈俺〉が怖いのかい?】」
影からぬっと長い足が前に出て進み出る人物に、駿一郎は首だけで確認すると荒々しく舌打ちを響かせて振り返った。
「居たのか? それともまだ現世に彷徨っているのか? 〇〇二〇?」
金髪を中央に分け、ダブルのスーツは白。柔和と言うに相応しい微笑みを浮かべているが、駿一郎を見る眼だけは笑っていない。微笑で固定されたような表情の男は、駿一郎の背後で驚愕している忍、鷲太、弥生に気付くと柔和な笑みを向けていた。
眼差しだけは、どうしようもないほど嘲笑の色に染めていた。顔から髪まで全てにいたるパーツが、駿一郎と類似しているところは、出来の悪いパロディー映画のように見えてしまう。
再び駿一郎へ視線を戻して肩を竦める、駿一郎と同じ顔の男。
「【〈現世〉に未練は無いさ。それに彷徨っていたというなら、お前の〈心〉の中で彷徨っていた。お前が未だに俺を〈想い続けている〉ように、俺もお前を〈想い続けている〉だけだ】」
――――いや、〈憎しみ合っている〉が正確か? と、鼻で笑う男。
新しい煙草を咥え、戸口にマッチを擦りつける。一発で着火したマッチを煙草の先に灯しつつ、嘲笑を向ける。獰悪に、その人物の存在を憎々しまでに嘲笑う。
「気持ちの悪い告白は飛ばすとして・・・・・・・・・〈虚像〉にしては、口調も発している雰囲気までよく出来ている」
「【〈虚像〉? 違うな? これは〈具現〉だ。この〈異界〉の術者による産物だが、〈産み出した〉のは術者じゃない。〈お前自身〉だ。この意味が判るか?】」
挑発するように、クスクスと笑う男。駿一郎は内面が窺えないポーカーフェイスで、目を逸らさずに男を見窺う。
「ふん――――〈虚像〉でもやはり、腹が立つな」駿一郎は、煙草を指で挟み紫煙を吐き捨てる。
「おい・・・・・・・・・? オヤジ?」
鷲太は何時もと変わらぬはずの父親に、不安を覚えた。
その不安を煽るように、男は髪を掻き上げて鷲太の顔をじっと見た。その視線を感じて鷲太も眼が合ってしまう。
虚無を混濁したかのような、昏い瞳に背筋が総毛立つ。
「【お前の子供か? そっちの小さい女の子もお前の面影があるな? 年は一五と九歳位か? ちゃんとした成長時間なら、よく育ってるほうじゃないのか?】」
ニヤリと――――鷲太達が成長している時点が、間違いであると。興味深い例外だと言うような眼差しから守るように、駿一郎は背中で遮りつつ戸口から離れる。
「俺の〈子供〉を、植物扱いするんじゃねぇ」
言下と共に現れたコインを指で弾き、右手で握り締める。
現れた黒一色のギターとサンダルフォンを傍らに、駿一郎は射抜くように男を睨む。
「【ふふ・・・・・・・・・怒るのは図星ってことだぜ? 兄弟?】」
男の言葉を無視し、駿一郎は背後にいる三人に顔を向けた。
その表情は、駿一郎を知る三人を何よりも驚かせた。
眼光そのものから烈気を露にし、余裕の無い表情だった・・・・・・・・・
「殿をしてやる。お前等はとっととここから離れろ」
淡々と言って、男に向き直る。男は首を振って見下すかのよう駿一郎を嘲笑し、
「【ご立派だな? とても〈人間臭く〉なったものだ】」
「早く行け、鷲太」
びくっと――――名指しで呼ばれた鷲太は、それでもこの場から離れる事が出来なかった。
あの男はきっと、強い。オヤジよりも――――そして、オヤジは・・・・・・・・・
「早く! 如月くん!」
忍は動こうとしない鷲太の手を掴み、乱暴に引っ張った。女の細腕であろうと、呆然としている鷲太を動かすのは容易かった。
そして、忍の動揺は鷲太とは違った。
駿一郎は〈手加減無し〉で、あの男と闘う気だ。全力であの周辺を微塵にするほど。
戸口から鷲太を引き連れ、牛刀の柄を口で咥えると空いた手弥生の手も掴む。
そのまま、一気にどこに繋がるかも判らない異界の廊下を走り抜けていった。
「【くっくく・・・・・・・・・しかし、お笑いだな? あのaZ〇二一が一端の〈親〉を気取るか? あれほど〈人〉らしい〈感情〉が無かったお前がな? 驚きだよ? 月日は人を変えるようだな?】」
言いながら、男の背には金色に輝く翼が花びらのように広がる。
その数は三六枚。大小の翼を王侯の如く広げて、駿一郎を見ながらクスクス笑っていた。矮小で唯一黒を帯びる天使を、貶すように。
煙草を吐き捨てる駿一郎は、それが答えだと言わんばかりだ。射抜くような鋭き眼光。
「今の内に精々笑っておけ。悔いが残らないようにな」
宣告と共に、ギターが掻き鳴らされる。音すら凌駕する聖音が手術室の存在を砂より脆く粉々に粉砕し、聖音は駿一郎を中心に三六〇度の範囲をところ構わず爆砕していく。
「【芸の無い】」
溜息を付き、指を鳴らす。聖炎纏いし柱が聖音すら消し去るほど、轟音を響かせて床を砕きながら突き上がり、聖音を防ぐ巨大な〈壁〉と化す。しかし、聖音に続く衝撃波は、無作為に亀裂を柱に走らせた。
「【次はこちらの番だな?】」
壁の向こうでもう一度指を鳴らす。
駿一郎の頭上一〇メートル先、数千とある炎を纏う杭。先が熱によって溶解しているそれらが雨の如く降り注ぐ。
「芸が無いのは、てめえもだ」
吐き捨てながら、サンダルフォンが顔を上げさせ、聖音をぶちまける! 鉄杭は粉微塵となり、消え去る――――はずであった。
数千の内二本が聖音を突き破り、駿一郎の両腿を貫通し、床に深々と突き刺さった。
「なに・・・・・・・・・?」
両足に突き刺さった杭を呆然と見詰めていたが、すぐにギターを握り締めて杭を叩き折ろうと振るった腕が、背後からガッシリと掴まれてしまう。
確認するまでも無く、敵対している男だ。忌々しく、振り向く素振りも見せずに、ふてぶてしいクールさを持って、両足から肉の焦げた異臭を放つのすら、顔色を変えずに呟いた。
「エノク? 俺が殺す前までは、俺の攻撃をすり抜けるような芸当が、無かったはずだが?」
エノクと・・・・・・・・・名前を呼ばれたことが、嬉しかったのか。男は喉の奥で笑いを堪えつつ囁いた。
「【ぇ・・・・・・・・・いや、シュン? お前が言っただろう? 俺は〈虚像〉だと? 俺はこの〈異界〉の術者を守る〈虚像〉だ。言わば、術者の守護者だな? なら、この〈異界〉をこちらの〈都合〉に合わせられるのだって、不思議じゃないだろ?】」
「クソッタレ。〈異界〉の中じゃ意のままかよ」
「【そう言うことだ。俺はこの〈中〉でしかお前の前で存在できないが、お前に決して負ける事は無い】」
ワイルドカードどころか、ゲーム自体が既にイカサマか――――と、溜息を吐いて肩を竦ませる。
その次には眼をかっと開いた。突き刺さる二本の杭から逃れようと、両足を切断する覚悟で足掻く。
「【はぁー少しはクールになれ】」
溜息混じりに呟いて、首筋にエノクの手刀が直撃した。意識を刈取る迅速な一撃を喰らいながらも、意識を失うことを拒否してコインを握る右拳で、手加減抜きの拳で左足に叩き込んだ。
筋肉繊維が引き千切り、骨が砕ける二重奏。
喉から焼き千切れるような激痛を食い縛る。おかげで気絶しないで済んだ駿一郎は、呼吸をゆっくりと整えていく。
「【マゾの性癖でもあったのか?】」
チラリと、左足に目を向けながらエノクは首を傾げた。
呼吸を荒くさせ、左足の焼き爛れた傷口からは鮮血が滲み、ズボンは黒い染みを膝下まで作り上げていた。
「ケッ・・・・・・・・・動き易くするためだぜ」
吐き捨て、肉が千切れる音を発しながら駿一郎の身体が振り向いた。
左腿が半ば千切れ掛けながら振り返り様、ギターのネックを掴んでいた。
髑髏の額に導火線が疾駆するかの如く、文字が浮き上がる。
司祭ジョン・ボールが、ワット=タイラーの乱の際に引き連れた農家達を励ました言葉。
When Adam Cultivated and the Eve spun it,who was the lord?
――――(アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったのか?)――――
貴族主義と金に堕落した神父達を、真っ向から否定する名言。
反骨の聖性を宿らせたギターのボディーが、エノクの顔面目掛けてぶち当たるはずだった。しかし、軽く掲げた腕によって容易く阻まれてしまう。その文字をマジマジと見た後、骸骨を鷲掴みにし、鼻を鳴らした。
聖性された〈力〉は〈虚像〉にも有効なのか、骸骨を握るエノクの手は焼き爛れ、肉の焦げた異臭と煙を上げている。
だが、顔色は一つも変わらない。寧ろ、手が焼けていることすら面白いのか、不気味な微笑は絶えない。
「【Who was the lord? ・・・・・・・・・・・・・・・フフッ。〈初期セフィロトの木〉壊滅後にでも、この文字を入れたのか?】」
「・・・・・・・・・・・・」
頼みの一撃も防がれ、得物を抑えられ、片足では蹴りすら放てない。駿一郎に成す術もない。成す術も無く、エノクのセリフを止める事も出来ない。
「【俺への〈供養〉にしては、考えたな? 〈天使王メタトロンたる俺が、セフィロトの木を支えたことを、忘れない〉という意志の表れか? そんなに罪悪感を持っていたのか?】」
駿一郎は左足から大量の血を流しながら、顔色を青ざめつつも顎でガラスを指す――――訓練場を指し示す。
意識はもう、飛ぶ寸前だった。
舌は制御を失って、脈絡も無く言葉を紡いでいく。
「俺以外皆、死んだ。クソッタレな訓練を考えたオヤジは確かに気に喰わなかったが、良く俺に有名ロックバンドのライブビデオやCDを聴かせてくれたし、見せてくれた。
バーンは何時かオヤジを殴り殺すが口癖だったが、寝込みや不意打ちすればいいのに、それをしなかった。真正面からオヤジと衝突することを、あいつは楽しんでいた。
シェリーはお菓子作りが好きだった。オヤジは馬鹿みたく、美味いとか天才とか褒めてやがった。
D.Kはオヤジと良くダンスで張り合っていた。車椅子の片輪走行で、ブレイクダンスをするオヤジに、いつも歯噛みしてテクニックを磨いていた。
サージェは、編物が趣味でオレ達全員に手編みのセーターやマフラーを、よくプレゼントしてくれた。オヤジは自分も欲しいとか言ってたけど、無視されていたな」
懐かしい、良い思い出だと。それなりに楽しめたと呟きながら、駿一郎は眼光で殺すとばかりに、エノクへ向ける。憎悪に混濁させた黒い瞳でエノクを睨んだ。
「てめぇは、〈兄妹〉を殺した。いや、殺し合わせた。敵の親玉に寝返りやがった」
「【お前は寝返った俺を含めた〈五人の兄妹〉を殺したろ? あぁ〜だからか? その懺悔でこの文字を入れたのか? 兄妹同士の殺し合いを止められなかった、自分の無力さに嘆いてか? それとも、〈兄妹〉で過ごした事を忘れないためか? ナンセンスだな? オヤジの形見になった〈死の聖者〉を未だに持っているなんて・・・・・・・・・】」
空いた手でゆっくりと手刀を作り上げ・・・・・・・・・
「【本当に、ナンセンスだ】」
駿一郎の首に今度こそ叩き込まれる。大量出血も加わって、駿一郎の視界はすぐさま暗闇へと、落ちていった。
四月一八日。四時四八分。黄紋町国道六六号線。ボロボロなゴミ箱があるコンビニ前。
頭を抱えてコンビニの前で座り込んでいる女の子。
金髪に金色の瞳を持つ少女を見捨てる事も出来ず、おれはオドオドと買ってきた缶コーヒーを手渡した。
「えぇ〜と・・・・・・・・・プレゼント」
何とかこのコーヒーは奢りだと、エセ英語と身振り手振りでアピールする。なんか、おれってバカじゃん。という、冷静な理性をヘッドロックのハンマーパンチで捻じ伏せる。
だって無視出来ないもん! 昔の美殊にダブるんだもん! こんな異国の地で、こんなちっちゃな女の子が途方に暮れてるんだぞ! バカでもピエロでも、愛玩動物でもなってやるさ!
「これ・・・・・・・・・あげるからさぁ〜元気だしなよ?」
おれが元気出せって、言われそうなほど弱々しい声音に情け無さ。当社比三倍って感じだ。
「・・・・・・・・・ありがとう」
少女は、缶コーヒーを持つ手と俺の顔を交互に見比べて、微笑する。サンクス・・・・・・・・・って、ヒアリングテストはいっつも赤点ギリギリのおれでも聴き取れる、心の篭った声音と共に缶コーヒーを受け取る少女。
おれはとりあえず、隣に座って買ったばかりのスポーツ飲料をラッパ呑みでグビグビのどを鳴らす。
さすがは激しい運動を考えて、作られた飲料だ。速やかにおれの身体に潤いが戻ってくるけど、ちょっと足りない。それに、もう空だし。二リットルって、これぽっちの量だったか?
空になったペットボトルを握り潰してゴミ箱に入れると、少女はまん丸に目を見開いて、おれを見窺っていた。
「なっ・・・・・・・・・何?」
「凄いですねぇ? そんなに一気飲みしてお身体を壊しませんか?」
えぇ〜と? 英語で言われましても、こちらにはちっともなんです。どうしよう? でも、発音的に疑問形だぞ? ここは一つ・・・・・・・・・謝っておこうかな?
「ソッ・・・・・・・・・ソーリー・・・・・・・・・」
「いえ、謝れても・・・・・・・・・どう反応すれば良いのか、判りませんが?」
日本語と英語の会話は、何故かやり取りというには不完全なのに・・・・・・・・・おれはその場から離れられなかったし、何だかとても落ち着ける。
まったり――――って感じかな? 彼女の周りにある空気は、ささくれ立った今のおれには、何よりも清涼材だ。
四月一八日。四時五〇分。黄紋町神宮院コーポレーションビル屋上。
暴力と魔術に係わり、『力』という概念を特化した世界を〈暴力世界〉と呼び、序列一位〈クラブ〉、二位〈トライブ〉、三位〈墓場〉というのは、常識中の常識。
魔術の知識と管理、蓄積の世界で〈連盟〉、〈聖堂〉、〈退魔家〉は魔術を行使する者なら、誰もが知っている。
では――――『女王』という意味は?
そう問えば、魔術に係わる闇の住人達の返答は一つである。
――――イカれた妖精王が作った、ソード・オフ・ショットガンを使える奴さ。
と、皮肉なのか敬意なのかも解らない返答が返って来る。
その銃の使い手は、女性達の名前があげられる。
トライブの保守派は〈月の女王〉と呼び、〈トライブ〉が嫌う吸血鬼でありながらも、〈月夜〉を所持する女王として、死後ですら崇められているマリア=イスカリオ。トライブの勇者にして、親善大使たる〈怒る飢え〉を導き、その肉と魂を恋人に捧げた女王。
〈錯乱者〉と吸血騎士が持っていた〈邪槍ロンギヌス〉をパクって家出した娘。半吸血鬼の姫にして〈血風の女王〉ヴィヴィアン・ヴァール。
もう一人はただ、『女王』と呼ばれる人間である。他の女王と違い、崇められている訳でも、人外という訳でもない。ましてや、権力すらもない。
――――ただ、女王と――――敬意と畏怖を込めて。その人間に対して頭を下げねばならぬほどその女王は威風堂々と、生まれ持った才能を努力で磨いた人物と――――真神京香を〈女王〉とも〈陛下〉とも言い、己の信念と誓いを忘れた時の死神への敬意を払う〈吸血騎士〉、〈怒る飢え〉が渋々ながらも、〈反対命題〉がその人物への嫉妬と、憧れを綯い交ぜにした複雑な意味で。
その女王はビルの屋上で鷹の如く、獲物を探していた。
獲物の名は、真神誠。自身の息子である。
「どこ行きやがった・・・・・・・・・・バカ息子・・・・・・・・・」
焦りに歯軋りする。
悲哀と愛情を綯い交ぜにした独白。
屋上を睨みつける女王はビルの突風すら身動ぎせず、下界を見下ろし続けていると、一人の女との会話が嫌でも思い出してしまう。
彼女の名はヴィヴィアン。
パリ支店を出した最初のお客が、『吸血騎士』の実娘である。
店の戸口で、微笑を浮かべてレジにいた京香へ向ける。
しかし、お腹は膨らんでいて、その体内で命の息吹を宿す妊婦。金色の髪と紅眼を持つ女性が、微笑んで京香を見ていた。京香としては、驚き過ぎてどう表情を作れば良いのかと困惑するほど、ショッキングな姿だった。
最初に対面した時など、初っ端から壮絶な殺し合いをした人物が、妊婦として現れたなら誰でも驚く。女王と呼ばれた京香でも、例外ではない。次に逢う時は、コイツが灰になる時だと、心に決めてもいたのだ。
色白の膚と唇から覗く、伸び切れていない犬歯はダンピールの証。
妖艶に殺戮のロンドを舞い、自分以外の全てを壊すための玩具と言い放っていた踊り子は、庇護者の美しい精神を微笑みに浮かべていた。
『久しぶり、キョーカ? パリに支店を出したと聞いてね? 近所だから顔を出しに来たわよ』
この上なく客として受け入れたくない人物に、顔を顰める京香であるがその女性は柔らかい微笑みを見せていた。
『ネクタイとかある? 今日、夫の誕生日だから驚かせたいのよ?』
言われて頭の中を真っ白にしつつ、客の応対をする京香であったが、最初の印象と大きく掛け離れた強敵のプレゼント選びに、あれやこれやと助言をして時間は瞬く間に過ぎ去っていった。
『奢るわよ?』と、かなり気合を入れてデザインしたネクタイと、男物のロングTシャツが入った袋を片手に、そんなことを言い出す始末であった。
何かの罠か? と、警戒心を強めながらもヴィヴィアンの提案に乗らなければならなかった。
店の前で戦えば、自分が無事でも他の従業員に多大な被害が及ぼしてしまうと判断し、 カフェテラスへと移る。
ナンパをしようとする者は誰一人として皆無だった。
魔術世界で〈女王〉と呼ばれし、二人の美女を口説けるだけの勇気を持つ者は、誰もいなかった。それに、一人は妊婦である。誰もが遠巻きで、チラチラと見るだけである。
美しさは強さである。二人がカフェテラスに居るだけで、周りの雑踏や通行人すら静寂を強要させ見窺うだけとなる。
京香は威圧的な雰囲気を纏い、ヴィヴィアンはどこまでもリラックスした仕草で紅茶に、舌鼓する。
京香は嫌悪感丸出しの眼光だった。何かの思惑があるのかと、ジロジロと見窺っていた。
『こうやって、顔を合わせるのは一七年ぶりね? 初めて出逢った時には、こんな風に落ち着いて話せなかったから新鮮ね?』
笑みの質を変え、母親になろうとしている女性は旧友を見るように微笑む。
対して、京香の顔は嫌な奴に出逢ったと語る顔をする。
洗練すら感じる落ち着きと語調。殺気を放射している京香を前にして、自然体を振舞っている人物に対して、いい印象を京香は持っていない。
京香が嫌う人物とは? と、言う質問に京香の旧い友人達はこう答える。〈唄う死天使〉、〈不死身鳥〉は迷わず答える。
――――京香の嫌う人物は、人の迷惑を考えず引っ掛けまわすタイプ。一方的に人に好意を持つタイプ。繊細さの欠片も無いタイプ。つまりは同族嫌悪だと、声を揃えてしまう。
その同族嫌悪に当て嵌まる人物は、〈血風の女王〉。対面する人物その人である。
この女性の場合は、一方的に人を引っ掛けまわすタイプで、繊細さの欠片もないタイプだったはずが、今は何故か一方的に好意を持つようなタイプになっていた。
『何のようだ? ヴィヴィアン?』
京香は顔を顰めて、温くなったコーヒーで舌を湿らせる。
『支店を出したと噂に聞いたから。ついでに、顔も見たくなったのよ』と、本当にただ逢いに来たというようなに微笑み、
『あと夫の誕生日も本当よ?』と、茶目っ気に答える。
『夫ってぇのは誰だよ? ヴィヴィアン・ヴァールと結婚したがる野郎は、想像絶する』
『あぁ・・・・・・・・・私自身を恐れてって意味なら、夫は私のことを全部知っているわ。そして、私の父もよく知っているわよ』
皮肉も込めて率直に言う京香を見ながら、クスクスと笑うヴィヴィアン。
『それに、ヴァールは旧姓よ。今はヴィヴィアン・ソーマ。国籍は日本』
『ソーマ・・・・・・・・・お前の旦那が蒼眞家の次男、昂一朗・蒼眞とか言うんじゃねぇだろうな? 〈アザゼルの子〉を養子として引き取った〈真神家四分家〉の一つとか言うんじゃねぇだろうな?』
『そうだけど・・・・・・・・・・・・何で解ったの?』
血の繋がり無くても、従弟だもん。小さい時、良く仁と一緒に遊んでたもん・・・・・・・・・・・・誠の紙オムツを取り替えてくれたいい子だもん・・・・・・・・・しかも、昂一朗・・・・・・・・・てめぇはまだ今年で二〇歳だろうが! 何考えてやがる! ゴム付けろ! 恋愛マナーくらい考えろ! そして、この女は私より五〇コ上だぞ!
世間は狭い。そして、若者は乱れていると痛感する京香に、ヴィヴィアンは手を振って慌てて言う。
『あっ! 安心してね? 私もコーも、あんたに迷惑掛けないようにするから? 今は私の貯金で賄えるし・・・・・・・・・子供が生まれたら、共働きして収入も増えるから』
都合、これで二度目の遭遇のはずである強敵にして、宿敵だったはずの女。最初の遭遇で壮絶な殺し合いをした人物が、まったく嘘のように見えてしまう。
恋愛して子供が出来れば変わるのか? 私もそんなんだったのか? でも、ここまで変わった覚えはないぞ?
『嫌がらせか? もしそうなら、大成功だ。とっとと消えろよ、お前・・・・・・・・・』
『えっ? いや、そんなつもりは無いけど・・・・・・・・・』
可愛がった従弟の現状に虚脱感が圧し掛かり、気だるげな声音の京香にオドオドし始めるヴィヴィアン。
本当にコイツと私って、闘ったのかな? と、自分の記憶すら訝り始める京香である。
『そんなに邪険にしないでよ? 今日は久しぶりに逢えた事だし、タロットカードを持ってるの。気に入った買い物が出来た礼も含めて、占うわよ? あっ? 私って今、占い師で生計を立てているのよ? もちろん料金はいらないわよ?』
『寧ろ、ただの嫌がらせのほうがよっぽど良かった・・・・・・・・・・・・』
そう、呟くと何時の間にかカードを切っていた。
超一流のディーラーも裸足で逃げ出すほど、片手でのカード捌きにはさすがに驚嘆してしまう。
そして、カードを並べていく・・・・・・・・・ヘキサグラム法――――南インドでは魔除けとされ、ユダヤ教のシンボル。右か、左かと判断に迷う時に明確な答えを引き出したい時に、的を絞ったテーマに対して、はっきりと答えが出るタロットの占い法である。
そのカードを六芒星に並べ、正三角形の頂点、右下、左下と三枚のカードを展開し、逆三角形の順に展開していく。
最初に捲る正三角形の頂点は過去を意味し、現れたカードは〈塔〉の正位置。過去に起こった京香自身の突然な裏切りを指し示していた。
『あなたは一方的な裏切りを知り、絶望を知った・・・・・・・・・これはあなたの〈兄〉に対してね?』
二番目の右下のカードは現在。現れたカードは〈節制〉の正位置。仕事、家庭、知人関係全ての素晴らしい調和的なバランスを意味する。
『でも、それらを糧にして、今のあなたは存在する。周りの人々は、あなた以上にあなたを評価している・・・・・・・・・本当のあなたは、誰よりも周囲に気を向けていると・・・・・・・・・必要だと、誰もが思っているわ』
『お前以外なら嬉しい限りだ』
『私もだけど?』
返した皮肉を、血風の女王と呼ばれし妊婦がボソリと聞き取れないような呟きで返す。こちらの錯覚であって欲しい。青白い頬が恥ずかしそうに薄っすらと赤かった。
三番目のカードは未来。現れたカードは〈審判〉の正位置。京香の努力と、真実を気付くという未来をカードは暗示していた。
『努力は報われる。真実に気付けば・・・・・・・・・』
そのすぐ下に位置する四番目に捲るカードは、それらの対応策として。〈吊るされた男〉の逆位置だった。京香の先の無い悪足掻きと、己の我侭を鋭く指していた。まるで、報われる理由が無いと、語るかのように。
『そんな自分自身を信じられない・・・・・・・・・不利な立場でありながら、報われなくても構わないと・・・・・・・・・自棄を起こしてない? このままで良いと?』
五番目は過去の左横に位置する周囲の状況。開かれたカードは、〈星〉の正位置。京香の行動と、努力の全てが叶うと言う暗示を示す。
『でも、心配無用よ。希望は叶う。少なくとも、あなたが思う〈最悪〉だけは退けられる』
六番目は京香自身の願望を指す。そのカードは〈力〉の逆位置だった。京香の現実性に囚われた〈勇気〉の無さ。対して、意志が弱いと語るカード。
『しかし、踏ん切りが付かず未だに、焦燥感に駆られているの? 残り少ないタイムリミットを、どう使うかに未だ悩んでいる・・・・・・・・・?』
『・・・・・・・・・・・・』
七番目のカードは六芒星の中央にある最終予想。それら全てを含めた最終的な結果を示すカードは〈悪魔〉の逆位置であった。今までの生き様を信じ、過ちすらも気付けるという吹っ切れたイメージーで現れた。
『思い悩まないでキョーカ? 最悪な状況は脱して、自分を〈立ち直せる〉。 戸惑いや違和感もあなたなら克服できる・・・・・・・・』
そしてタロットを再び集めて、シャッフルしていく。丁寧に何度も素早く。
『あんたはね――――?』と、微笑みながら一番上にあるカードを捲り、京香の正面に向ける。
そのカードは〈女帝〉の正位置。繁栄と発展を意味し、京香の不安たる〈種〉と共に、進歩すると、力強くカードは語っている。
『何度占っても、最後には〈女帝〉の正位置を出す女よ』
自信を持てと、暗に励ますような口調にますます京香は顔を顰めていく。励まされたくない人物なら、尚更である。
『あんたの事が気になった時、タロットで運勢を占っているの・・・・・・・・・今も、〈安定〉しているから安心しているわ』
てめぇに心配されるギリはねぇ。私とお前は殺しあったんだぞ? 私はお前を、灰すら残さず消し去るつもりだったんだぞ?
『あんたの〈運勢〉は、とても安定している・・・・・・・・・この先、何があろうと。私の占いは、結構評判良いのよ? まぁ、〈黒白の魔王〉のように全て〈解る〉訳でもないけど、〈流れ〉というものは〈読めるわ〉・・・・・・・・・』
優しさすらある宿敵の微笑みに、うんざりしながら京香はそっぽを向くが、ヴィヴィアンはそれすらも許容するのか。優しい微笑を浮かべ続ける。
その深く、底なしのような微笑を読める理由は、京香でも存在しない。人外のため、数えられていないが被免達人の段階すら入り、どんな魔術師よりも〈経験〉と〈実績〉を持つ〈血風の女王〉の言葉は、何よりも心に残ってしまう。
『興が乗った事だし、アンタの〈子供達〉を占っても良いわよ? あぁ! 確か・・・・・・ファーストネームと、ファミリーネームの頭文字で良いわ。子供達を守るために〈情報操作〉をしているでしょ? コーから聞いたから?』
言わない限り、他言無用だと言う態度。どこまでも、こちらが話していないことをべらべらと言う妊婦に舌打ちしながらも、京香は最愛の息子と娘の頭文字を呟いた。言わなきゃ、飽きるまでここに居座る雰囲気だったからだ。根負けのように、溜息混じりに答える。
『娘も息子も、M.Mだ』
『マガミで、ファーストネームがM?』と、初めて見せる驚きの顔に、訝しげに首を傾げた。
そんな京香の疑問に気付いたのか、首を振るヴィヴィアン。
『いえ、何というか。〈真神家〉でM.Mと言う名を持つ者は、〈黒白の魔王〉も含めてぶっ飛んだ輩が多いせいよ・・・・・・・・・確か、娘は養女だったと風聞に聞くけど? その娘の旧姓は言わなくてもいいから、その時の頭文字は?』
『M.Yだ』
M.Yか・・・・・・・・・と、口の中で何度も呟きながら、微笑を浮かべる。
『なら、出遭う事があればきっと友達になれるわ・・・・・・・・・K.MとM.Yは私にとって、いい転機や刺激を意味するもの』
ある意味、最悪の返答だった。
血風の女王と横に平等の〈位置〉する立場など、京香としては忌々しすぎた。こちらの感情をかき乱すことを狙って言っているのかと、訝ってしまうほどである。
『それじゃ・・・・・・・・・・・・その娘の流れを見てみようかしら・・・・・・・・・・・』
言いながら、先ほどと同じようにヘキサグラム法ではなく、スリーロウズ法。
過去、現在、未来と時間の流れを追って分析する展開法。
一つ一つの問題に関してじっくりと対策を講じたい時に適した占いである。京香にしては、歯軋りしたくなるほど娘に対して適した占い方だった。
上段三枚は占い師側から見て、過去を指す。左は否定要素、中央は基本状況、右側は結果。
中段も同じく否定要素、基本状況、結果と続き、下段の未来を指す三枚も同じであり、未来の最終予想を指す。そして、その未来のすぐ下にある最初に捲る中央のカードは、本人の性格や願望と今の状況を指し示している。
下段一枚に配置した本人を意味するカードは、〈戦車〉の逆位置だった。
『・・・・・・・・・自分の気持ちと信念に苦しんでいる・・・・・・・・・下手に自分をコントロールしようとしている伏しがある・・・・・・・・・いや、本音と建前に苦しむタイプ? 血液型はAB型?』
たかがカードで、何故血液型まで解ってしまうのか。
『自分に自信を持てていないようね・・・・・・・・・自棄を起こして、無責任な傾向も出てしまいような予感も感じる・・・・・・・・・』
次に捲られたカードは過去の否定要素。現れたカードは、〈愚者〉の逆位置。
『自分の感情すらも懸命に押さえ込んで、忠実になろうとしている・・・・・・・・・型にはまる息苦しさ・・・・・・・・・』
与えた仕事は・・・・・・・・・誠を守れ。誠を危険に晒すなの、たった二つである。あまり強く言った理由でもなく、美殊はそれを守ろうとして矛盾に傷付きながらも行なっていると、カードは語る。
そして過去の結果を指し示すカードは〈正義〉の正位置。
『立場を明確に考慮し、受け入れようとしているようね? いい傾向よ。このまま行けば、己の真実に気付きもする』
中段にある否定要素を捲る。カードは〈死〉の逆位置。
『でも、やはり過去の出来事を断ち切れていないようね』
過去・・・・・・・・・未だに自分を母と呼ばない娘は、実父と実母への愛情がそうさせている。
現在の基本状況を指すカードが、血風の女王の手で優雅に捲られる。そのカードは〈女教皇〉の逆位置。隠された力を持ちながら、競争心ばかり先走るとカードは語る。
『周りの優れた人間を見て、自分では届かないと諦めているかもしれないわ・・・・・・・・・まぁ、〈ゲート〉はある意味〈弱肉強食〉の理想郷だし。本当に強くなければ住めない場所だから・・・・・・・・・』
己が養女であるが故に、人一倍努力して召喚法を会得するも、それでも位階の高みを行く者達と、比較して落ち込む様子を窺えた。その横にある現在の結果を指すカードが捲られる。〈節制〉の逆位置だった。
『今は待って耐えるべき状況に入っているようね。極端に自分の成そうとする事を実行しようと、無茶をしかねない。危なっかしいわ』
下段の未来否定要素に位置するカードが捲られる。カードは〈教皇〉の正位置。
『自分の人生を見出す、転機が来る。それも直接的にこの娘を導こうとする助言者が、今も近くにいるはずよ?』
落ち込む時、その者が現れるとカードは言う。その横をヒラリと捲る。未来の基本状況を指し示し、過去、現在に反映されたカードは〈太陽〉の正位置。
『今までの出来事をプラスへ変え、本来のバイタリティーを取り戻す。進歩が顕著に見られる』
最終予想のカードが捲られる。〈運命の輪〉の正位置。
『彼女は人生において、試練を越える。チャンスを手に入れるはず。あとは、逃さないようにタイミングを誤らなければいいけど・・・・・・・・・』
『占いするために逢いに来たのか? それとも本当は嫌がらせをしに来たのか?』
喧嘩腰で言う京香に、ヴィヴィアンは苦笑しながらカードをシャッフルしていく。
『ただ、アンタの顔を見たくなったのよ・・・・・・・・・これは本当。嫌がらせなら、もっと手の込んだ事をするわよ?』
計り知れない微笑みと共に、今度は誠の占いを始めるヴィヴィアン。
タロットの展開法は、ケルト十字。
一つの問題に対して、深く掘り下げたい時に用いる展開法。過去の誘因、現在状況、障害物、本音にまで迫って、問題解決の糸口を探る手法。
『では、始めましょうか? 今代のM.Mの占いを――――』
こちらの要求すら無視しておきながら、誠に対してもっとも適し、京香自身が悩ませる息子の〈一つの問題〉。
それらを悉く当てていく〈血風の女王〉は、京香のポーカーフェイスが崩れる様を、チラリと見ながら占いを続けた。
血風の女王すら顔を顰めて、カードを捲り続けていった・・・・・・・・・己の占いの正確性を呪うように。